尊敬するベートーヴェンの胸像と
私は日本人だが、高校卒業後ドイツで主な音楽教育を受け、そこで20年近くも過ごしてしまったせいで、ちょっと何かがずれてしまったように思う。実にいろいろな事に興味を持ちすぎたかもしれない。
作曲を学び、私が行う事は広い意味で現代音楽なのだが、今日でもなかなかそうは思ってもらえない。

ドイツではコンピュータや新しいメディアを使った作品をずいぶん作ったが新しいメディアに興味があった訳でない。それを通して出てくる人間の感覚、認知の新しいかたち、そしてその向こう側に広がる世界観に興味があった。
2000年に日本にもどってからは、まずワークショップという形式にとても興味をもった。ブーレーズはオペラ座を爆破しろ、と言ったけど、私は現代音楽の持つ、神話に取り巻かれた偉大なる作曲家がいて、その反対側に聴衆がいるというような構図にはちょっと限界があると思った。リオタールが言うように偉大なる物語は終焉を迎え、それはおそらく音楽でも同じかなと思う。作品性や作家性にたよらない後産業化社会のあたらしいアートのかたちとしてワークショップのデザインを行ってきた。

2005年にソウルで行った聴覚障害者のための新しいメディアを使ったワークショップ。手で触るスピーカーなども考案し、参加者と音や視覚を使った表現を行った。

といっても外見やインターフェイスを替えただけでは状況は良くならないので、泥臭く音楽のシンタックス、とくに視覚もふくめたマルチモーダルな表現の研究も行ってきた。
現在は理化学研究所でも客員主幹研究員として脳の計測を通してある仮説の検証を行っている。「彼はいったい何をしているんだ」、というような声も聞こえてくるが、実はこれこそが音楽のシンタックスの根っ子にある問題なのである。
音楽認知において一番最初にある問題は音楽の分節化の問題である。分節化があって初めていろいろなレベルのグループの関係性から音楽のシンタックスが生じてくる。この夏は分節化の要因の一つであり、終止音(フィナーリス)から発達してきた終止形の認知についての実験を重ねている。
あまり深く掘りすぎているのかもしれない....しかし、どうも夢を見果てることはないようである。
古川 聖






